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教祖誕生


■公開:1996年
■制作:ライトヴィジョン
■監督:天間敏広
■助監:
■脚本:加藤裕司、中田秀子
■原作:
■撮影:
■音楽:
■美術:
■主演:萩原聖人
■寸評:


 大体、暇な人間というものはロクなことを考えない。 

一人旅をしていた青年・萩原聖人は街頭で霊感療法のデモンストレーションをやっていた宗教団体に出会う。車椅子の老婆・南美江を「手かざし」で完治させた教祖・下条正巳に興味を持って後を追うと実は老婆はただのサクラ。面白そうだと思った萩原は一行のリーダー・ビートたけしの許可を得て仲間に入る。

 連絡船に乗っている萩原が最初に出会うのが件の宗教団体の熱心な信者・玉置浩二。たけしや岸部一徳は宗教を完全にビジネと考えている、いわば興行師。教祖の正体は町で拾った酔っ払いのジジイなのだが、だんだん徳に目覚めてきてサクラ以外の病人も治療すると言い出して、たけしに教団を追い出されてしまう。

 「手かざし」療法の仕掛けは法衣に仕込んだ静電気発生装置。ドサ回りの大衆演劇のようにマイクロバスで布教活動を続ける一行。地元のやくざに絡まれたり、電気ショックが強すぎて瀕死の病人を殺したりしてしまうが、多くの信者を抱えてなかなか金回りが良いらしい。

 ジジイのかわりに教祖に祭り上げられた萩原聖人は滝に打たれたり、断食したりと、人々を救うために神に近づこうと努力する、本物の教祖になろうとするのだ。その姿に感動した玉置がたけしの金儲け主義を批判し会報に教団の経営(か?)体質への抗議文を掲載してからこの物語はクライマックスを迎える。

 「神様が救ってくれるなんて人間の欲望に過ぎない」「金を出すことで本人が救われたと思うなら二束三文の仏像でも高価に売っていい」と、徹底した無神論者のたけし。とうとうがまん仕切れなくなった玉置が激情の余りたけしを襲うが反対に殺されてしまう。惨劇を目のあたりにした萩原は「神様のバチがあたったんだ」とつぶやく。

 新教組の御披露目の日「信者の顔が札束に見える」と、ホクホク顔の岸部に萩原は「無礼者!教祖に触るな!」と叫ぶ。彼は本物の教祖になったのだ。( 萩原はこの後、完璧にイッてしまい「マークスの山」へと成長するのであった、というのは大ウソです。)

 純粋な信仰心を持っている人や目覚めちゃった人より、意地汚なく金儲けしている側のほうがよっぽどまともに、かつ冷静に見えるというパラドックス。「宗教はね、信じることが大切なんで本当かどうかなんてどうでもいいんだ、そんなものは人間の解釈ひとつなんだよ」たけしが焼き肉屋で宗教団体に就職を希望する萩原に説明するシーンが印象深い。

 たけしという俳優は市井の人を実によく観察している。何気ないしぐさや、喋りの間というものが「あんな人いるいる!」とすぐ思い浮かぶ。顔だってとてもフツーなのにやることは異常。日常に潜む暴力的な部分と虚無的な部分をフツーに演じてしまえるのがたけしの凄いところ。

 宗教を馬鹿にするな!という玉置浩二は一見まともだが「宗教を信じている自分」を馬鹿にするな!という本性が見え隠れしてくるところがゾッとする。「オレ=神に一番近いもの」という優越感をチャラにされるのが結局は怖いのだ。「純粋に神様を信じているボクって素敵!」という幼心がコンセプトなので「神様も純粋」でないと都合が悪い。したがってたけしや岸部は「許せない」ということになる。

 萩原に至ってはあくまでも商売上の戦略として教祖になっておきながらすっかりソノ気になってしまうところが、これまた幼い。幼稚な純粋さが暴走する姿の怖さ。宗教は人を救うためにあるはずなのに、いつの間にやら「権力」として成長してしまう様子が実にさりげなく描かれる。

 「オマエラだって所詮、こんなもんなんだぜ」と人間が「見たくない」部分をオシャレに突きつける、ビートたけしのいる世界はいつもシュール。

1997年07月17日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16