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この窓は君のもの


■公開:1993年
■制作:WOWOW
■監督:古厩智之
■助監:
■脚本:古厩智之
■撮影:
■音楽:
■美術:
■主演:斉藤優雅子
■寸評:西瓜に味の素をかけるのは止せ!


 学生映画みたいな映画、という言葉があるがこれは決して誉め言葉ではない。で、この映画を見た後に思わず口をついて出たのが「まるで学生映画のようだ」であった。

 リョーコは山梨県の田舎の高校生。明日は一家で北海道に引っ越すのだ。夏休み、少年はリョーコが好きなのだが言い出せずにいる。ところがリョーコの祖父がぐずったので引っ越しは延期、祖父の説得のためにリョーコは少年の家に軒が接するほどの隣家にしばらく住むことになる。 

 少年とリョーコをめぐる恋のさやあて。酒屋の息子(けっこうバタ臭い顔でややマッチョ)、サザエさんの中島みたいな男の子(眼鏡あり)、葡萄園を手伝うイガグリ、イガグリにほれてるワンピース、マニッシュな女の子、、、。名前があったんだろうけど覚えていない。それよりなによりこの少年少女達のたどたどしい、なのに異様に自然な芝居が印象に残る。

 アマチュアっぽさのキメ手はカメラである。「クレーンやレールを使う=商業映画」っぽさ、これに対して「三脚と手持ちのみ=自主映画」っぽさ。他に「スタッフのなかに『応援』がいる、しかもかなり多い」とか「出演者とスタッフが一部、重複している」ってのも、あるにはあるが。この映画は8ミリの自主映画みたいな匂いがぷんぷんする。それが狙いなんだろうけど、とにかく芝居と画面がドンピシャ。なんとなく「1時間ちょっと」がとても幸せに過ぎるのだ。

 リョーコは「足首が太く」て顔がちょっと「全女の豊田真奈美」似。ほんの3年ほど前はこういう健康的な女の子がいっぱいいたんだが。今や市場は「りょう」や「宝生舞」程度のボリューム感がもてはやされているのだから、、、もうついていけませんなあ。3年しかたってないのにすでに「懐かしい」ってのが凄いっすねえ、ってそれはあーた歳のせいよ。

 リョーコは少年とイガグリを両天秤、ではないけれど最初はふわふわと軽やかに舞う。だがリョーコも少年が好きなのだ。「好きだ」を誘き出すためにいろんなデモンストレーションをしてみせる。胸が一杯で言い出せないイガグリ。マニッシュな女の子は少年が好きで、リョーコと「男」を賭けて乱闘!ただし流血なし。まるっきりこれじゃあ男女が反転してまっせ!これがイマドキ(死語か?)なのかと思ったりして。

 酒屋のマッチョはモテモテそうで実は「西瓜をチマチマ食べたり」「女の子の座っていた座布団の匂いを爆嗅したりする(ここんところは秀逸!「嗅がれた」マニッシュの顔が引きつる!)。不器用な人なのだ。

 花火大会が近づく。リョーコは引っ越しを受諾した祖父に「花火が終わってから」引っ越しすることを提案。この祖父がイイかんじ。そのへんのジーサンなんだろうが、なにもかも分かってます、って感じでリョーコをやさしく見守る。この映画にちゃんと「出演」している(少なくとも見終わった後、記憶に残る)大人はこのジーサンだけなのだ。

 雨で順延した花火大会がついに開催される。それぞれのパートナーを見つけた子供達。ただし中島だけは「犬」が相手。雑種犬とふたりで花火を見る図は、ちょっと「スローターハウス」っぽかったですね。なんか中島も「そういうの好き」そうだったし。

 「スヌーピー」の世界では「大人」は全然登場しない。子供達だけで人生や哲学を語らせたり、甘酸っぱい幼い恋心の「世界」をはりめぐらせて見せる。葡萄棚での追いかけっこ、青草にゴザひいて昼寝、、、汚れた大人の観客(ってのはオーバーですけど、、私含む?)は「リョーコとコイツはいつヤルんだろう?」なあんてドキドキしちゃうんだが。「祭りの準備」や「遠雷」じゃあないんだからさあ、って、時代の流れをひしひしと感じてしまいました。

 はい、タネもシカケもありません、と言いながら実はいろんな仕掛けがありそうな、「夏休みの絵日記」みたいな映画でした、マル。

1997年05月20日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16