PICNIC |
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■公開:1995年 |
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精神病(だと診断されている)男二人(浅野忠信、橋爪こういち)と女(チャラ)がいっしょに塀の上をどこまでも歩いて行く。どこまでも歩いて行くと途中で「降りてこい!」とお巡りさんに怒られたりするが、お巡りがドジな奴だったので足をすべらせたスキに浅野が拳銃をかっぱらう。 看板を撃ってみたりしながら、塀の上をひたすら歩く三人。一人が塀の上から落ちて頭を打った。彼はもう一度塀の上に上ろうとするが首が折れ、モーローとなった挙句に動かなくなってしまう。雨が降ってきた。浅野は昔、自分が犯した殺人を思い出し錯乱する。浅野とチャラは海に出た。 チャラは「もう一人の自分を殺した私も人殺しだ」と言い残すと浅野の拳銃で頭を撃って死んでしまう。 私は映画を見るときには、なるたけ頭を使わないようにしている、悩むのは嫌いだ。「かわいい!」「バカバカ!」「すっげー!」程度のモードだけで鑑賞しきれる映画が大好き。したがってこの作品のように「作者のいいたいこと」が強すぎるのはどーも苦手、ハッキリ言って「わけわからん」です。 この監督の映画を観るのは実はこれが初めてなんですよ。な〜んかとっつきにくそうで、少なくとも私が好きな「分かりやすい」映画ではなさそうだなあ、と今まで敬遠してました。「映画監督ではなく、映像作家である」というのがどうも鼻についてました。サービス悪そうなデザイナーのブティックに入ってバツの悪い状態、に近いものがあります。そこにいるこまっしゃくれたマヌカンに岩井監督の雰囲気が似てて、会ったことないけど、そういう印象だったわけ。 精神を病んだ人ってのは、いわばキワモノだから演じる役者にとってはオトクなキャラクター。「シャイニング」のジャック・ニコルソン、「スケアクロウ」のアル・パチーノ、「道」のジュリエッタ・マシーナ、「まぼろしの市街戦」のジャン・クロード・ブリアリ、沖山秀子(し、しまった演技以上の人を出してしまった)。 ボヘミアンのような、ピルグリムのような、登場する三人のファッションのセンスが良いとか、浅野忠信の透明感は魅力的だとか、「点」としては面白そうな要素は感じられるのですが、濃い映画に慣れているので、とてもスカスカな感じがしました。そのスカスカを必死で補填しようとしている自分の脳の働きがうっとうしいわけです。思わせぶりなブレブレのカメラワーク、即興芝居のような恣意的な画面や芝居。こういうのだめなんですよ、筆者は。 首を四方八方からゴキゴキ折って死んでいく男。白日夢のようなストーリーに突如、現われる「流血」。なんかサンマの塩焼き食べていて思いっきり「ハラワタ」噛んじゃってものすごく「苦かった」みたいな。やっぱサンマはハラワタ取って、ちゃんと洗っておいてほしいものです。 でも人間、辛抱してみるもの。映画の後半、特に浅野の錯乱以降はこの奇妙な空気感を結構、楽しんでいる自分を発見してしまいました。ちょっと頭使って見てみるか、と思い始めてからやっと岩井監督と浅野忠信という役者の「楽しみ方」を会得できました。 浅野忠信の顔は変身前の大魔神、つまりハニワ顔(あ、ファンの人、怒らないでくださいね)みたいで、最初はどこがいいんだかよく分かりませんでしたが、その限りなくフツーな感覚と透明感は今までスクリーンにはいなかったタイプです。無色透明だから観客のほうが役者に自分の色に塗って観たくなる。その感覚はなかなか心地よいです。押し付けがましくない、というやつですね。 男二人が白い衣装なのにチャラは烏の羽で真っ黒け、つまりモノトーンのキャラクターたち。観客が受動的に無防備に映画を楽しむのではなく、観客が作家の作った台紙に自分の色を投影させて楽しむ、それが岩井俊二監督の作品を楽しむコツのようです。この作品は映画の見方を発見する喜びを体験させてくれました。 (1997年07月28日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-05-16