復讐するは我にあり |
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■公開:1979年 |
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最近の「大量無差別殺人」の犯人(容疑者)を見ていると、まがりなりにも自分のために殺し続けたこの作品の榎津のほうがよっぽど「人間らしく」見えてしまいます。いつの時代でも自分のモノサシと世間のモノサシが大きくズレた瞬間、人は「人でなし」になるんですね。 榎津・緒形拳は専売公社の職員を殺害し逃亡。各地を転々としながら、そして正体がばれそうになると次々にゆきずりの人間を殺しては逃げ、殺しては逃げを繰り返す。「殺人」が彼にとってどんどん、無感覚で無感動で日常化&正当化されていく背筋の寒さ。「パクられる」そんな疑心暗鬼がだんだん膨らんでいく様子と「そろそろ殺るんだろうな」とフト期待しながら見ている観客(私)。おおこわ〜。そこへ登場するのが榎津の妻・倍償美津子と父・三国連太郎。 三国と賠償が事件を重ねる息子(亭主)の話をしながら黙々と薄暗い湯殿を掃除している場面。なつかしいタイル張りの、ところどころシミだらけ垢だらけの床や壁をデッキブラシで掃除している。湿気と熱気で薄着の二人の肌が次第に汗ばんでくる。う〜ん、こうやっていつもむせ返るようなセックスしてんだろうなあ、という二人の関係が如実に伝わってきます。 男が最後に転がり込んだのは小川真由美と清川虹子の親子(すごいコンビ)が経営している曖昧宿(淫売婦をかかえておく家=広辞苑より)。世間(当時)から「落ちこぼれた」蟻地獄のような女の巣。緒形の正体には何となく気付いている二人。それでも緒形に惚れて尽くして抱かれる小川。寂しくて切なくて、でも、たぶん殺されるであろう自分の将来を予感していながら「ひょっとしたら」に賭ける女心。この母子を静寂の中、殺害した男はついに逮捕される。 緒形はきっちり死刑を宣告されます。小倉の刑務所を訪ねた父と子の対面(対決シーン)は鬼気迫るものがありました。緒形の犯した冷血な殺人を一身に引き受けた三国の熱演。他の暴力シーンや性描写を遥かに凌ぐ、熱気。「俺の一生、こげなもん(榎津は九州出身)」と独白する緒形。本当にこういう人がいた、という事実を反芻してみると、ちょっと人間が嫌になるかもしれませんが。 遺骨を引き取った三国が崖の上から骨を撒きます。空中に飛び散った骨片がストップモーションで画面にはりつきます。男の執念か?怨念か?未練か?それとも父親の悔恨か?観客が「あっ」となったところで映画はぴしゃりと終わってしまいます。他人を殺しながら自分の生を確認していくという、榎津の一生と情念の塊のような父親。 検閲でかなりカットされた場面があるそうですね、まああれですね被害者の心情を慮れば相当でしょうから。当時は上映を禁止する県もあったということですが、「アビス」や「グランブルー」みたく「完全版」ってのを見てみたいです。はたと気付けば2時間半近い長編なのに全然疲れないし眠たくならない濃い映画でした。 (1997年01月29日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-05-16