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股旅


■公開:1973年
■制作:ATG
■監督:市川崑
■助監:
■脚本:谷川俊太郎、市川崑
■原作:
■撮影:
■美術:
■音楽:
■主演:萩原健一
■備考:紋次郎がアウトローの剣豪なら、こっちは正真正銘のチンピラ。


 この映画にはカッコイイ人が誰も出てこない。

 萩原健一、小倉一郎、尾藤イサオ(このトリオは絶妙!)は仁侠に生きるために故郷を飛び出して旅を続ける。金はないし、腹は減るし、寒いし、、というたいていの人間なら人生を投げるレベルの最低生活。彼等は野良犬のように素人の博打場を襲って金をふんだくったり、仁義のためと言いながら親を殺す、ゆきずりの女を犯し飯炊き女(合法的な売春婦)として売り飛ばす、一旗上げるために世話になった親分を襲う。生きるためならなりふり構わないバイタリティ。

 そんなたくましすぎる生命力に唐突に訪れる「死」。尾藤がいちびっている最中によろけ、木の切り株かなんかに足を踏みぬいて、破傷風になって死ぬ。小倉は、大親分に取り入るために人殺しをしようとする萩原と対決して、三度笠につまづき、崖から転落、岩に頭をぶつけて死ぬ。そのあっけなさがこれまた、魅力。

 節操がなくて、臆病で、意地汚なくて、三人各々事情はあるでしょうが、結局は萩原を残して二人は文字どおり野垂れ死ぬ。生活のために家族が離散し、娘は売られ、流れ者でも亭主を見つけた女は必死にその足にすがります。逞しい女達と姑息な男達。とりわけスゴイところが何もない、すでにスタートからして落ちこぼれている(と思われる)無名の青年達の愛しくもあり滑稽にもみえる足掻き。

 立ち回りってのじゃなくて、なんか、こう、刀をブンまわすだけと言うか、滅茶苦茶振り回す感じ。後の紋次郎でも踏襲されるスタイルです。全然、カッコよく(様式的ではない、という点で)ありません。主人公サイドが絶対に負けるんじゃないか?とハラハラさせます。棒っきれであたまを殴られて「いて〜」と七転八倒します、情けないです、でも必死です。

 「はっしゅう様」というのが時代劇でよく出てきますがこれが「移動警察」だということをこの映画で初めて知りました。いわゆる地元のやくざの親分(地廻り?)ってのは国権の手先みたいなのも請け負っていたというのも解説してくれました。時代劇映画って勉強になりますねえ。

 小倉が偶然出会う父親が大宮敏充。懐かしいですね「デン助」です。は?知らない?そういう方に解説しますと(自信ないけど、なにせまだ小さかったので)いわゆる、ハゲかつらに泥棒髭(口の廻りをぐるりと黒く塗る感じ)メイク、腹巻、ハッピ、地下足袋という下町の職人オヤジスタイルを確立した喜劇俳優。この「味わい」は後年のビートたけしによる「鬼瓦権蔵」のキャラクターあたりに感じ取れます(あんなに暴力的じゃないですけど)。年がら年中酔っ払ったような、でも人情味あふれるイイ感じのオヤジさん。デン助メイクとると、大宮敏充ってなかなか二枚目だったんですね、びっくりです。

 この作品は市川監督のテレビ時代劇「木枯し紋次郎」の翌年ですね。人との関わりを表面上は拒絶しながらも、心底、人間を恋しがっていた紋次郎と、この作品の登場人物とはやはり共通するものが多いと思います。紋次郎のように「剣豪」でもなく、孤独に耐える強さも持ち合わせていないこの三人はなんだかんだ言いながら一緒に生きて行こうとする。つまり子供なのですね、紋次郎と比較すると、年齢的にも。だから共感を呼ぶのかも。今見てもね。

 顧みて現代は「友達、仲間」をやたらに連発し、たくさんいるよ、と「量」を誇りながら、お互いに深く立ち入ることを拒絶する。紋次郎やこの映画の登場人物達とはまるっきり正反対ですね。そこがまた、現代から見ると面白いわけです。時代劇ではあっても制作当時(もう23年もたってる!!!)の思想心情や世相が推し量れる、疑似体験できる面白さ。古い映画の楽しみ方の一つだと私は思っています。

 雄大な山懐にちっぽけな人間のシルエットは市川崑監督のオハコ。虫けらみたいな人間でもその営みは必死で熱い。雪や雨や太陽が三人を包んで印象深い画面です。それと同時に昔は良いロケ地がいっぱいあったんだなあ、と余計なところで感心してしまいました。

1997年01月05日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16