異人たちとの夏 |
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■公開:1988年 |
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離婚したばかりの脚本家・風間杜夫が出会う、三人の異人=幽霊。浅草で出会ったのは子供の頃に事故死した父親・片岡鶴太郎と母親・秋吉久美子、そしてマンションの空部屋にいた女・名取祐子。彼(彼女)らとの一夏の「思い出」。 死者が出てくる映画ってのはたくさんあるのだが、たとえば「雨月物語」とか「薮の中の黒い猫」とか、外国のだと「キスミー・グッバイ」とか「ゴースト」とか「天国のチャンピオン」とかも。大林監督のは他にも「ふたり」「あした」がある。色恋沙汰や郷愁だからメルヘン映画なのであって、これが恨みつらみという話だとこれは「怪談」と呼ばれるわけだ。問答無用で破壊的だと「怪奇映画」とか「ホラー映画」になるよね。 幽霊がなぜ怖いかというと「先方さんに恨みを抱かれるような心当たりがある」か、または「全然知らない人なので何をされるかわからない」からだ。自分が大好きだった人なら、これはもう絶対、幽霊でも何でもいいから会いたい!と思うのが残されたものの叶わぬ思い。 主人公の「会いたい」が蘇らせた父母は実に生々しい。息子が目の前の両親を死者であることを忘れ(忘れたくて?)てしまうほど。だが、缶ビール買って、それがあまりに冷たいので、生者の息子がハンカチを巻こうとすると、「俺は平気なんだよ(死人だから)」って答える父親。ここでまず鼻の奥がツーンとくる。それはいつかやってくる「別れ」が予想されるからだ。さりげなく突っ込まれたこの一言。このへんの分かりやすいテクが大林監督のうまさだ。ちゃんと説明してくれる。 鶴太郎の父親に風間の息子のとりあわせは最初は面喰らうのだが、主人公と同じくだんだんと違和感が無くなってくる。秋吉が着ているアッパッパは、私の年齢(1962生まれ)くらいまでがギリギリに共感できる「懐かしアイテム」だろうな。 最後に両親を浅草のスキヤキ屋に招待するのだが。彼等が現世に止まれるタイムリミットが訪れてしまう。生きていた頃の両親をとうに上回る年齢の息子が、最初は「行かないで」と子供のように懇願するが、二人が夕日にゆっくりと溶け(ここが、キレイ!)始めたのを見て「ありがとうございました」と礼を述べる。スキヤキがぐつぐつと煮える。「全然、食べなかったじゃないか」とつぶやく主人公。「孝行をしたいときには親は無し」である。 名取のほうは、これは「とりついて」いるんだから、「牡丹灯籠」のお露さんか「雨月物語」の京マチ子だな。最後に生気を吸われてぼろぼろの老人になってしまったところを、熱血・永島敏行に救われる主人公。正体を表わして宙吊りになって胸の傷口から血を噴水のように上げる名取。かなりのスプラッターシーンだ。それがなんとなく幻想的なのは、蒼い光で画面を包んだせいか。彼女も最後に(たぶん)主人公=人間のことを「許せるよう」になって成仏する。 大林監督はクラシックをBGMによく使う。この映画でも音楽が実に効果的に使われていた。誰もが共感できるメランコリーを最後まで、すでに陰も形もないアパートの草原に転がる、懐かしい感じのガラスの器(アイスクリームをいれるやつ)までひっぱって、印象に残してしてから、シメる。ここもウマさだなあと思う。 「雨月物語」の田中絹代は最期まで観客に「生きてるのかな?」と思わせて、あのはかなげな独白によるまで「幽霊だった」事実ははっきりと言わない。それは「道」でジェルソミーナを探していたザンパノと同じで、観客も森雅之と感情を共有化できるようになっていた。この映画では最初から二人は「幽霊」として出てくる。こんな幽霊なら大歓迎なんだが、、。 大林監督の映画にまた癒されてしまった。 (1997年03月22日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-05-16