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偽れる盛装


■公開:1951年

■制作:大映

■監督:吉村公三郎

■助監:

■脚本:新藤兼人

■原作:

■撮影:

■音楽:

■美術:

■主演:京マチ子

■寸評:藤田泰子は吉村監督の映画でデビューした。東宝の久我美子にちょっと似てる。


 芸者の君蝶・京マチ子は勝ち気でドライな性格で売れっ娘だが、金の切れ目が縁の切れ目というわけで次々と男に貢がせてしまうやり手である。

 母親が経営するお茶屋に地味で一途な妹・藤田泰子とともに暮らしている。昔、旦那に囲われていた母親は落ちぶれた義理の息子・河津清三郎の窮状を救うべく自宅を抵当にいれ借金する。死人に恩返しなどアホらしいと言う京マチ子は、落ち目になった客・殿山泰治をソデにしてさっさと他の男・菅井一郎に乗り換える。妹は母親のライバル芸者だった女将の息子・小林桂樹と恋仲になり、結婚の約束をするが、相手の母親は「格式が違う」と猛反対する。

 戦災を免れた京都は伝統という美しい資産を残せたけれども、因習やしきたりといった封建主義もそっくり引き継いでしまった。京マチ子は妹の「仇討ち」をするために、婚約者の母親の現在のパトロン・進藤英太郎を借金返済用の資金調達を目当てに横取りする。二人が密会している現場に踏み込んだ女将と京マチ子がくんずほぐれつの乱闘に発展するが、そこへ京の前の男から電話が入る。

 京が最初にフッた殿山泰治は一念発起して屋台の店主になってがんばるが、次にフラれた菅井一郎は会社の金を使い込んでクビになっており京に借金の申込をする。根性のある殿山と違ってグダグダと文句を垂れる菅井に「女房子供がいるのに芸者遊びなんかするな」と冷たく言い放つ京。数日後、みやこおどりの舞台のソデに現われた菅井は京に包丁を突きつけた。

 舞台衣装のまま京都の往来を逃げ惑う京マチ子の裾が激しく揺らいで、カットバックで挿入される菅井のせっぱつまった表情と対比して緊迫感をもりあげる。踏切で行く手を阻まれた京の背中に菅井の怒りの一撃が見舞われる。幸い命は助かった京マチ子。小林桂樹はついに実家を捨てて、藤田泰子とともに東京へ行くと告げる。二人の門出を病院の四角い窓から見送る京マチ子と母親。細い露地の両側から突き出した重厚な軒が途切れるとそこに広々とした青空が見える。そして件の踏切にさしかかるが、遮断機はスルスルと上がって行く。

 因習という「重し」を京都の古いたたずまいの陰影で表現して、そこから逃れられなかった京マチ子と、旅立っていく妹との差異を踏切の扱いで隠喩的に表現してみせる。昔の映像作家というのはこのように「絵(画)」でもってきちんとストーリーを説明していたのだ。肺病で床についた若い芸者が、寂しさのあまりお茶屋から漏れてくるお囃子に手ぶりを併せるシーンが美しくていい。菅井一郎の洒脱な旦那がしょぼくれて行く姿も女に迷った中年男の悲哀を切なく見せてこれも素晴しかった。

 表面上は気の強さを装う京マチ子だがかわいがっていた妹のためには前後不覚になったり、妹分の芸者の死にそっと涙を流す。流麗なカメラと情感溢れる脚本(新藤兼人)と丁寧な演出、それに達者な俳優が揃えば文句のつけようがない映画ができあがるという見本だ。

1996年11月14日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16