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裸の大将


■公開:1958年

■制作:東宝

■監督:堀川弘通

■助監:

■脚本:水木洋子

■撮影:

■音楽:

■美術:

■特撮:

■主演:小林桂樹

■寸評:本物は芦屋雁之助似ではあるけれど、私にとっての「大将」は小林桂樹でキマリ。


 あなたにとっての「ヨースケ」が「太川陽介」であったとしても、私にとってそれは「夏木陽介」であるように、テレビや映画でいくら芦屋雁之助が「〜な、なんだな」と吃ってみても、私の山下清は小林桂樹であり続ける。

 本人に姿形が似ているかどうかの問題ではなく、とにかく最初に見てしまったもんだから、まあ一種の「スリコミ」だといえるだろう。小学生だった私が「へ、兵隊の位にすると、ど、どれくらいかな」という山下清の口調を真似していたら、クセになってしまい、しばらくの間、少々吃音気味になったので私の両親は大変アセッたそうだ。

 生来、知能に障害がある山下清が、養護学校を脱走して各地を放浪するお馴染みの話。世の中は太平洋戦争へ一気に突き進んで行く暗い時代でありながら、山下清にとってはそんなことはお構いなし。徴兵検査でもパーなのであっさり落第。やがて終戦を迎え、玉音放送を聞いて泣き崩れる人々をボーっと眺めていた山下清だったが、いつものとおりフンドシ一丁であったために、動いた拍子にそれがハラリと落ちてしまう。清同様、終戦という事態がまったく飲み込めない子供が清の姿を発見し指を差して大笑いする。

 学園に戻った清は旅の途中で見たことを貼り絵にして表現することに熱中する。それが先生の目に止まり清の作品は高く評価されることになる。一気に有名人になってしまった清を追いかけ回す新聞記者。「な、なんで、おいかけまわされるのかな、わ、わからないな」と困惑しながら清はまたも旅に出てしまうのだった。

 小林桂樹が本物のパーに見える(褒め言葉と受け取ってくださいね)。坊主頭に小太りのヌーボーとしたその姿は「天才バカボン」そのものである。通常、道端でこのような「尋常ではない人」に出会ったら、それが結構体格がよかったりするとなかなかコワイものである。そう、それはサバンナの野生動物と大差ないからだ。

 清が生きていた時代はまだ人間と野生動物が共生してた(?)のか、現代の様に半裸でうろうろするイイ歳したオッサンを見て、恐怖におののき伏し目がちに通りすぎる人はおらず、どこへ行っても清はただの「近所のバカ」としてみんなにごく自然に迎えられる。

 最近、大江健三郎の子息を描いた映画が評判になったけれども、それは「障害者=天使」みたいな取り上げられ方だった。

 「フォレストガンプ」もちょっと同じ様な「空気」があって、日本のテレビにもしばらくのあいだ様々なハンディキャッパー(に扮した俳優)が登場していた。だが、天使は所詮、人間ではない。どの作品も障害者に対して優しくしていながら実は完璧に「異物」として扱っているように見えた。

 その点、本作品の登場人物は山下清を「世話のかかる奴」と思ってはいるがいつも自分達の地平線と同じところに存在するものとして接している。

 こういう「近所のバカ」をごく自然に生活のなかに描くことは最近、すっかりタブーになってしまったような気がするが、さていかがなものだろうか。

 ラストシーン、マスコミ(な、なんとコロムビアトップライトクレイジーキャッツが乱入!)に追っかけられて逃げる小林桂樹の走りに注目せよ!

1996年11月11日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16