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田園に死す


■公開:1974年

■制作:人力飛行機舎、ATG

■監督:寺山修司

■助監:

■脚本:寺山修司
■原作:寺山修司

■撮影:鈴木達夫

■音楽:J・A・シーザー

■美術:栗津潔

■主演:菅貫太郎、高野浩幸

■寸評:


 主人公の少年時代を演じた高野浩幸は「変身バロム1」「新・どぶ川学級」で活躍した当時の天才子役(と呼ぶには成長してるけど)、なかなか美形だったけど、今なにしてるんだろ?

 強烈な母親の押し付けがましい愛情のもと少年は隣家の後妻に憧れる。後妻はとても美しかった。町はずれに来たサーカスの異形の者達。なんとなく英国製の魔映画「フリークス」を連想してしまう。20年前の記憶を映画化しようとしていた映像作家(寺山修司=菅貫太郎)である現在の「わたし」の前に過去の「わたし」・高野浩幸が突然現われる。

 少年時代の「わたし」は顔面(だけ)白塗。父なし子を生んだ女、封建的な隣家の姑、学制服を来た修学旅行の「老人達」みな白顔のオバケ。それが「わたし」の追想の中で現われては次々に消えて行く。過去をやりなおそうと決意した「わたし」は過去の「わたし」とともに母を殺害しに行くが果たせない。

 全編シュールなキャラクターがなんの脈略もなく時には踊り、歌い、絶叫しながら観客を混沌へ導く。旧家の畳を剥いで突然「恐山」が現われたり、田んぼの真ん中で将棋をさす二人の「わたし」の後ろで三上寛が吠える。時間と空間をねじ曲げて物語は進んでゆく。

 川面を御詠歌のような不思議なメロディーに乗ってきらびやかな雛段が流れてくるシーンは東北地方の貧村に実際にあったとされる「子流し」の風習を連想させる。村八分にされた女は父親の分からない血まみれの赤ん坊を川に流し、都会で水商売に身を沈めた後、村に帰ってくる。そして性に目覚めかけた少年(わたし)を「強姦」するのだった。

 いかがわしいような、懐かしいような、うさん臭いような、純粋であるような、さまざまなイメージが羅列される。そして母親の殺害に失敗した現代の「わたし」は柱時計のある懐かしい田舎の土間で母親と差し向かいで飯を食う。と、いきなり壁がバタンと倒れるとそこは東京・新宿駅の東口広場なのだった。この唐突な「ねじれ」が人間にとっての原体験とはなにかという事を示しているように感じられた。

 ラストシーンが強烈な本作品に主演したのが菅貫太郎。新宿の雑踏の中でご飯を食べるのはとても照れ臭かったと後に語っている。現実だと思っていたのが実は映画で、作家は虚飾にまみれた映像(現在)を否定し過去の呪縛(母親)から逃れようと試みる。その象徴が壊れた「柱時計」を捨てて「腕時計」にあこがれる様に象徴される。結局、圧倒的な母親の記憶も抹消できず自分の誕生日は常に「現在」であるが本籍地は「恐山」である事を最後に認める主人公。

 様々な隠喩的映像のジグソーパズルが観客を「あの世」まで誘っているような映画だった。

1996年10月11日

【追記】

2012/04/20:最後の衝撃的なラストシーンが撮影されたのは、新宿駅の西口ではなく東口、勘違いも甚だしいのでした。ご指摘ありがとうございました、修正しました。

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2012-05-01