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牡丹灯篭


■公開:1968年

■制作:大映

■監督:山本薩夫

■助監:

■脚本:

■撮影:

■音楽:

■美術:

■主演:本郷功次郎

■寸評:


 牡丹灯篭というのはもともと落語である。

 武家の娘が家名のしがらみから世をはかなんで自害し、侍女もこれに同情して後を追う。怨霊になった二人と出会った旗本の落ちこぼれが娘のほうに惚れて相思相愛になり、怨霊に取り憑かれて衰弱死するという、三遊亭圓朝が創作した落語をベースにした映画。そもそも牡丹灯篭というのはあまりコワクない。毛も抜けないし顔がボロボロになることもないし、どちらかというと艶っぽいオバケが主役。幽霊が金で共犯者を誘い込んだり、その共犯者が幽霊にタカるという落語っぽい筋立てのほうが見物である。

 この作品のホラーな部分はお露・赤座美代子の侍女・大塚道子に尽きる。私は映画でもテレビでもたとえば「人格温厚な(役を演じている)大塚道子」というのを見たことがない。陰険で嫉妬深く、人の話を立ち聞きしていたり、マザコンの息子を持っている母性の権化で嫁をいびり出したり、そういう「オッカナイおばさん」のイメージが強い。登場しただけでその場を底知れぬ闇に引き込み、他人の「ささやかな幸せ」といったものを、とことん妬んで犬に食わせてしまうような破壊力を発揮するのが常。

 本作品でもお露のためなら人の命の一つや二つなんとも思ってないもんね、という具合で怨霊パワーを全開にして二人の逢瀬をサポートする。

 怨霊に殺されたという図式が一般的な新三郎・本郷功次郎だが、本作品では彼は自分が属していた武家社会からドロップアウトした人間であり、かといって町人になりきれるかというとそうでもなく、出自のブランド力におんぶにだっこ状態であるわけで、お露がオバケで自分の命が危ういと知ってもなんとなくヤッってしまい、一応抵抗はするものの最後は一緒に棺に入るので、これはつまり両者合意の「心中」ってことだなと理解した。

 良く考えると一番割りが合わないのは、普段持ち慣れない大金に迷って新三郎とお露の心中に協力させられる向かいの夫婦もの・西村晃小川真由美であろう。幽霊が現世の金などもっているのがヘンなので、この夫婦が手にしていたのは実は盗賊が埋めた隠し金だったのだ。そこから失敬してくる幽霊も幽霊だが「もっとよこせ」と居直る二人も大したタマである。

 大塚道子はこの二人に「お礼のお金はどこそこに埋めてあるから取りに行け」と言う。約束を破って金だけを手に入れようとした二人に、大塚道子はきっちりオトシマエをつけさせる。欲に溺れた西村晃と小川真由美が金を掘り出している最中に盗賊達が現われてハチ会わせしてしまうのだ。「ちょくちょく盗んでいやがったのはテメエらか!」といきり立つ一党に「これは幽霊がやったんだ!」と説明して許されるわけがなく二人は惨殺されてしまう。

 お露の「家」に対する怨念の深さ、武家社会への抵抗に殉じた新三郎、庶民の物(金)欲の生々しさと業の深さ、それらが印象深いカラー画像で描かれる本作品は日本の怪談映画史上、屈指の力強さと情念に満ちあふれた作品であると思われる。監督の山本薩夫は「左翼映画人」と呼ばれているが、階級社会への批判という点ではこの作品にも一本スジが通っているといえよう。私はむしろ「ああ野麦峠」や「戦争と人間」の時に見られたような風景を「骨太にする」カメラワークがこの監督の身上であると思う。新三郎の葬列のシーンなどにそのへんは十分に発揮されている。

1996年10月29日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16