「日本映画の感想文」のトップページへ

「サイトマップ」へ


雨月物語


■公開:1953年

■制作:大映

■監督:溝口健二

■助監:

■脚本:川口松太郎、依田義賢

■撮影:宮川一夫

■音楽:

■美術:

■主演:田中絹代

■寸評:


 黒澤明監督の「七人の侍」だけでなくこの頃の日本映画は多くの外国映画に影響を与えていた。と言うか、溝口健二だけでなく、黒澤明、市川崑の海外にも知られるような名声はほとんど宮川一夫のお陰だ。 

 貧困の農村から二人の男が都で一旗上げようと妻子を連れて出て行く。時は戦乱、都で散り散りになった彼等を待ち受けていたさまざまな運命。焼ものを売って商売しようとした森雅之は町はずれの館で美しい高貴な女・京マチ子と侍女の毛利菊枝に歓待される。森の仲間の小沢栄太郎は百姓を捨てて武士になることを夢見て雑兵となり、他人が討ちとった大将首を拾ってタナボタで出世するが女房は娼婦になる。森雅之の女房の田中絹代は故郷の村に子供を抱えて帰ろうとしたが途中で落武者に襲われる。

 京マチ子と毛利菊枝は実は幽霊。「牡丹灯篭」のコンビを想像していただけると分かりやすい。森雅之は「牡丹〜」の源三郎同様に、正体を知らない京マチ子との情愛に溺れかかるが、高僧の法力によって命からがら逃げ出す。

 ここでは京マチ子の「能面メイク」に注目しよう。あ?怨霊に化けるのなら京マチ子に特殊メイクは不要だって?そんな失礼な(本当の)こと言っちゃいかんな。森との逢瀬に悦楽の表情を浮かべるときの「小面」のような美しさと、正体がばれて態度を豹変させた男へ向ける怨念のこもった「鬼女」のような顔。マジでおっかないぜ。

 森雅之は女や借金で失敗するとすぐ臆面もなく昔の恋人(妻含む)に頼るのが得意だが、この作品でも一度は化け物の色香に迷ったくせにやっぱり女房の田中絹代が恋しくて故郷のわが家へ帰ってくる。女房を探して森雅之が家の周囲をぐるりと一回りして戻ってくると土間に明りが灯り田中絹代が繕いものをしながら亭主を迎えるのだった。

 最初の薄暗い屋内から田中絹代が忽然と現われるまで1カット。ここは有名すぎるシーンなのだけれど、やっぱり何遍見てもいい。カメラが家の裏手に回った間にライトをかえて田中絹代がセットインしたのだが、そのメルヘンチックなシーンが「ああ、やっぱり女房はもうこの世の人ではなくなっているんだな」とそれとなく観客に分からせる。

 このシーンに影響を受けたというのが「ラストエンペラー」のラストシーンである。「ラスト〜」は本作品の逆をやったわけだ。 

 女房が命懸けで子供を守っていたときに、自分は京マチ子といちゃついていたくせに「これからは仲良く暮らそう」みたいな事を言う森雅之だったが、案の定、翌朝になると田中絹代の姿はどこにもないのだった。

 田中絹代は落武者から子供だけは守ったが槍を受けてしまい、瀕死の姿で村に帰りつき息絶えたのだった。子供への愛情と亭主恋しさから幽霊となってまで子供の面倒を見ながら亭主の帰りを待っていたのだった。「やっとあなたが帰ってきたというのに、私はもうこの世にいない。これも運命なのですね」という田中絹代のナレーションで映画は終わる。

 映画の最初で4人が霧の立ちこめた湖面を小船で進むシーンや先述した田中絹代の幽霊の場面が実に幽玄な雰囲気を醸し出して崇高な美しさを感じさせる。カメラは言わずもがなの宮川一夫。

1996年10月11日

【追記】

※本文中敬称略


このページのてっぺんへ

■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16