虹男 |
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■公開:1949年 |
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監督の牛原虚彦は「路上の霊魂」でも映画技術の新しい試みに意欲的に取り組んでいるが、本作品でもパートカラーという手法に挑んでいる。本作品はどちらかと言うとお笑いネタにされることが多いようだが、映画としてどうこうよりもこうした挑戦についてもっと高く評価されてもいいように思う。と、同時に何を描きたいのか?ということとそれを達成するための技術が上手くフィットしないと空中分解するのもまた、事実であるが。 たとえばブリブリに3DCGを使いまくってるんだけど肝心の映画のストーリーが驚くほどチープで面白くない映画があったとしましょう。そういう映画を見た人はきっと「この映画には技術以外に見るべきものはない」って言うでしょう。本作品は実にまったくそのとおりで、かつ、当時としてはハイテクだったのかもしれないけど、肝心のフィルムが散逸だか褪色だかしちゃってカラー撮影の発色技術のオリジナルが現在ではよくわかんないので、仕方ないから当時の関係者と見た人の証言をかきあつめてリバイバルしたのが、現存するソレというある意味、とても気の毒な映画なんです。 「獣人雪男」「蝿男」「狼男」等々映画にはいろんな「男」が出てくるでしょう?本作に登場する虹男とはどのような姿形をしているんでしょうねえ、虹なんだからきれいなんだろうなあ、とワクワクしながらこの映画を見た人はたくさんいたと思います。 資産家の摩耶家は代々「虹男」の幻想に憑りつかれていました。 瀟酒な洋館で一人また一人と惨殺されていく摩耶家の人々。「虹男よ、虹男が出たわ」事件の関係者は口々に叫びます。摩耶家の長女、志満子・平井岐代子の恋人、新聞記者の明石良輔・小林桂樹と警視庁の岡田警部・大日向伝が事件究明のために摩耶家に泊り込みます。 しかし、彼らの目の前でまたしても殺人事件が起こってしまいます。そしてついに明石も虹男の幻覚を見てしまうのでした。 モノクロのねぼけた(単にプリントがヨタっているだけ)画面に大仰な演技が時代を痛感させます。「私〜しましてよ」というオハイソな台詞回しとかったるい演出等々が観客(私)の睡魔を誘います。だがここは我慢のしどころです。 なぜなら宣伝ポスターなどにおどろおどろしく描かれた「虹男」のイラストがあまりにも強烈であったせいです。振り乱した髪、長い手足、ロシア人のような端正な横顔、それが虹と共に昇天して行くような幻想的な姿で描かれている例のアレ(どれ?)。 虹男ってあんなカッコいいンだ!アニメーション処理なのかな?誰が演るのかな?天本英世だったりして、とかなんとかまだそんなにこの時代なら天本さん老けてないってば、など想像と期待はモチのように膨らんでしまうわけです。 そんな観客のドキドキ&ワクワクとは別に映画の方は古色蒼然たるセットと演出で淡々と進みます。 え、まだなの?まだ出てこないの?早く出してええええ! 事件の真相は敏腕警部によって解明され、いかにも怪しかった画家の摩耶勝人・植村謙二郎はハイになるためにメスカリン(メキシコ原産、サボテンに含まれるアルカロイドが服用すると多彩な幾何学模様の幻影が見えるらしい)を使用していたと判明したので実はシロ。一見、まともに見えた摩耶豊彦・宮崎準之助の様子がおかしいので問い詰めると実は彼こそ本物の豊彦を惨殺して彼になりすましていた犯人=虹男なのでした。 で、結局、虹男はどうなったかというと、これはネタばれなんで見たいひとだけ見てね。[ようするに全然出て来ないんだよねー]というオチ。 イヤ、確かにネタばれはいけませんけど、ああいうの誇大広告って言うんじゃないでしょうか。期待しまくった問題のカラー撮影技術も冒頭のような体たらくなんで、この映画はトホホ×100くらいの価値しかありませんが、21世紀初頭の観客としては、時間の障壁を超えて価値観を共有することがいかに困難であるかをつくづく思い知らされた映画でした。 しかし、あのなー、こんなの詐欺だぜ!JAROに言いつけっぞ!と一人でエキサイトしちゃいそうになったのは事実。SFな魅力はてんで期待しなくてもいいけど、浦辺粂子が恐怖におののく顔のほうが、虹男よりかよっぽど立派なSFかも。 (1996年07月05日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-08-17