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絞死刑


■公開:1968年
■制作:創造社、日本ATG、日本ATG(配給)
■監督:大島渚
■脚本:田村孟、佐々木守、深尾道典、大島渚
■原作:
■撮影:吉岡康弘
■音楽:林光
■美術:戸田重昌
■主演:尹隆道
■寸評:この年のキネマ旬報ベスト10、第3位になった。


 舞台は東京、小菅か?「あなたは死刑場を見たことがありますか」という手書きメモのアップから処刑場とそのプロセスが懇切丁寧に解説されます。連行されてくる死刑囚、朝鮮人・R・尹隆道

 彼と彼を取り巻く人々が国家とは?犯罪とは?個人とは?についてスラップスティックスのような寸劇を延々と繰り広げられます。

 Rの刑は執行されるが彼は「死を拒否して」蘇生してしまいます。

 さあ大変!こんなことは初めて!「じゃ、もいっぺん!」ってやり直すってわけにもいかないんですよ、死刑は「死の恐怖」が罰のメインですから「殺す」ことは結果的にそうなるってことらしいんで。狼狽するのは刑務所の教務官の渡辺文雄(東大卒、元・電通社員)、所長の佐藤慶(元・地方公務員)、牧師の石堂淑郎(現役作家)、医者の戸浦六宏(京大卒)、検察官の小松方正(元・大蔵省管財局員)というアタマはよさそうだけど性格は悪そうな面々です。しかもRが一時的な記憶喪失にかかり「ボクは誰ですか?」と口走り周囲の狼狽は最高潮に。

 そこで彼等が考え出したのがRに「自分の罪を再認識させて自ら進んで死刑になってもらう」事なんですね。んな、バカなことがあるの?という観客のとまどいを置き去りにして、彼等はRの生い立ちから犯行に至る経緯を寸劇で演じ始めます。なぜ?って思い出してもらうってことです。

 「自分が死刑にならなきゃいけないんだ」ということと「自分は死刑になるべき人間なんだ」と納得してもらうために。怒鳴りあいながら狭い処刑場で背筋が寒くなるようなブラックユーモアに満ちたドタバタが延々と続きます。

 いつのまにか空間がねじれ処刑場の外が朝鮮人の町(北区の王子のあたりか?)になります。制服姿で犯行の軌跡を追う刑務所の職員たち。街頭のゲリラ的ロケーションにア然としている見物人がシュールな空気をさらに盛り上げます。

 制服姿のいかつい連中(出演者を確認してみよう)が集団で右往左往するのだから充分異様です。犯行の再現が終了すると一瞬にして舞台は処刑場に変わります。想像であったはずの寸劇が出演者たちの熱演のたまものなのか、いるはずのない「Rの姉」まで出てきちゃうのです。SFですね、これ。

 Rの姉・小山明子の登場以降は「朝鮮人」の民族としての自覚をダラダラと解くシーンなんでそれまでのドタバタが嘘みたいです。「僕は人間で在日朝鮮人で殺人犯で死刑になるべき人物(らしい)」結局Rは裁かれる事を受け入れて死刑になります、が、執行されて垂れ下がったロープの先にはRの死体が無いのです。

 「人を殺したから死刑なんですか?死刑は殺人なんですか?では皆さんも裁かれて死刑になるのですか?」と刑務所の職員に問いかけるR。終始、日の丸を背負った検察官の小松方正が画面を覆うような無言のオーラを発してえらく不気味です。

 ところで日の丸背負った小松方正ってなんだか「シルバー仮面」の玉川伊佐男みたいでしたが(分かる人だけでいいです)佐々木守でつながってるんで納得してください(謎)。

 絞首(死)刑を執行されても助かった、つまり絶命しなかった人は実際にいるらしいですね。もちろん再執行はされなかったわけです。被告はもう充分「恐怖」を味わったから、ということで。

 イデオロギー映画ってどうしても分かりにくいんですよね、でもこの映画に満ち溢れるブラックユーモアが、何時の間にか裁かれる側と裁く側をひっくりかえしてしまうので、すごくわかりやすいんですね。既成概念のモロさ、危うさ、ひっくるめて実験的で先鋭的な映画ですね。

1996年08月17日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-08-17